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古代出雲の神々の里
通称大庭(おおば)の大宮さん
出雲風土記に記載が無い神社
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神聖な最も古い神殿だそうで、神魂神社(かもすじんじゃ)の名前の由来は、神坐所(かみいますところ)→カンマス→カモスとなったと言われているそうです。

出雲に来たなら一番初めに参らないとダメだよ。ここの神社はね出雲大社と向かい合わせになる位置に建てられていて、凄いパワーのある神社なんだよ。出雲の原点だからね。と、出雲大社で出会った語り部の方に教えて頂いた神社です。


神聖な場所

実は、何度も訪れている出雲なので、この神社の存在は知っていました。
しかし、何故か足が向かなかった神社でもありまして、これもまた、出雲大社での巡り合わせの御縁や、神様のお導きなんでしょうね。

神魂神社の表向きは、控え目な鳥居だったこともあり(出雲大社のような大きな鳥居を想像していました)、小さな神社で地元の方に愛されている神社かな?と想像したのですが、とんでもないパワーを感じた神社でした。

鳥居をくぐった瞬間、空気が澄んでいる感じがし、石を積み上げた様な階段を上って境内に近づくのですが、一歩一歩近づくにつれて、ピーンっと張り詰めた空気に変わってきました。圧が凄いというか、パワーを感じる神社です。

そのパワーを感じる由縁は、今でこそ神在月の際は神々が出雲大社へお集まりになっていますが、まだ出雲大社が無かった頃は、この神魂神社に神々が集まっていたそうです。
そのなごりからか、八百万の神々は出雲大社へ行かれる前に一番初めにこの神魂神社へ集まり、熊野大社でお酒を交わした後、出雲大社へ行かれるそうです。

そして、この神魂神社の際神はイザナミ大神とイザナギ大神です。

私はこの話を聞いた時、
神在月のが終わり八百万の神々が出雲を去る時も、イザナミ大神が眠る佐太神社へ立ち寄り、イザナミ大神を偲び、万九千神社でお酒を交わし出雲を去る話を思い出しました。

神々が立ち寄る神聖な神社には イザナミ大神がいる。
母は本当に偉大だなと感じます。

そして、そんな神聖な神社はとても凄い圧を感じるんです。言葉に良い表すのが難しいですが、これがパワーなのかなって感じます。


歓迎の合図?

よく神社から歓迎されている合図の中で、
●神事を執りおこなっている。●雨が降るまたはその逆。●結婚式に遭遇する。●動物やその他生き物に会う。
などなど神様から歓迎のサインがあるという話がありますが、私は頻繁にこの現象を体験します。
そして、この神魂神社でも、何度目かの参拝の時に偶然神事を執り行っていて、やっと受け入れて頂けたと感激しました。

太陽の光が神々しく輝き、スポットライトのように神社を照らしている中、神職の方が正装をして厳かに執りおこなわれていました。
大きい神社ですと、間近で拝見できる事が難しいのですが、こちらの神社では拝殿と本殿の囲いが近い事もあり、間近で神事を拝見でき、ありがたく恩恵を頂きました。
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神魂神社の起源

本殿は現存する社殿のうち最も古いといわれている神社で、国宝にもしていされているのですが、『延喜式神名(えんぎしき じんみょう)』や、『出雲国風土記』には何故か記載されていないそうです。

社伝によれば、天穂日命がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安時代中期以降とみられている。

当社は出雲国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで当社に奉仕したという。出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた。

引用:ウィキペディア



意宇六社のひとつ

意宇六社(おうろくしゃ)と呼ばれる6つの神社がります。神魂神社はそのひとつで、熊野大社、眞名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社が意宇六社です。この六社を巡る事を「六社詣り」と言い、江戸時代以前から巡拝されていたそうで、「六社さん」とも呼ばれていています。

そして、この6つの神社がある地域は、明治に町村が定められるまでは「意宇(おう)群」と呼ばれていたそうで、この意宇)群とは、『国引きの神話』で八束水臣津野命(やつかみずつぬのみこと)が「出雲の国は小さすぎる」と、周辺から国を引っ張り大きくした後、「意恵(おうえ)」と喜びながら回った土地が意宇(おう)と呼ばれるようにり、出雲国の起源とも言われています。

そんな出雲の国の起源になっている場所に「意宇六社」があり、そのひとつが神魂神社です。


地図


六社の位置を地図で示しました。ルートは関係無いです。場所と距離の目安にしてくだい



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神社へ行くなら新しい服で福を頂こう






地元の方の台所「いわなり寿司処」
旅館が取れなくて夜ご飯に迷った時に利用しているお食事処を紹介します。

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恥ずかしながら回っていないお寿司屋さんで食べる経験が殆ど無いので、こちらを利用する時は、コースでお願いしています。

「のどくろ」や「クエ」が贅沢な大きさで出してくれます。しかもお値段もリーズナブル。
関東との比較ですが、こちらで出してくれる大きさののどくろを食べようとすると、こちらのコースが食べられちゃうんじゃないかな?

コースの金額は2人で約1万6千円程です。
めちゃくちゃ美味しいので、少し贅沢な夕飯を楽しみたい方はお勧めですよ。

私達が食べたコースの一例その1
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コースの一例その2
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コースを予約する際は、金額やメニューをお店の方に確認すると良いですよ。
寿司処 いわなり

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江戸時代の初期のお話です。
日御碕の宮司、小野尊俊(おのたかとし)という人がいました。この宮司は加持祈(かじき)という優れた能力を持っており、また、宮司の妻は、藩の家老・神谷備後(神谷源五郎冨次)の娘で、その美貌はとても美しく隣国でも噂になるほどだったそうです。
加持祈(かじき)
願望がかなえられるよう神仏に対して行う一種の呪術作法

そして、この頃の第二代松江藩主は、松平綱隆(まつだいらつなたか)公という人物で、領民のために心をくだく名君でした。
しかし度重なる火災と水害が起きていたそうで、苦労が続いていたそうです。更に、追い打ちをかけるように自身の妻も亡くなってしまい憔悴しきっていました。
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1673年の事です。徳川将軍の命により、第二代松江藩主・松平綱隆(まつだいらつなたか)公が日御碕神社に参拝にやってきました。
そして宮司夫婦は藩主をとてもよくもてなしたそうです。

この頃の松平綱隆公は、苦悩や憔悴しきっていた事もあり、美しかった宮司の妻に安らぎをもとめたのかも知れません。
自分の側女(本妻以外の妻)にしたいと願いました。
そして、家老・神谷備後に「娘を連れもどして自分にくれ」と言いだしました。家老はそれを断り、宮司の妻も藩主の申し出を頑なに拒みました。

そこで藩主は何としても側女にしたいと計画を立てました。

それは宮司が加持祈を使い、沖を行く船を止めるなどした事を取り上げ、隠岐の海士(おきのあま)へ流刑に処し、宮司の妻は松江の神谷方に引き取らせ、城内へ入れようとしました。
しかし、奥方は理由を付けて城内だけは頑として入ろうとしなかったそうです。
和風見出し
一方、宮司は、たとえようもない立腹しさと、どうしようもない不満を抱えていました。
そうして毎日、隠岐の高い山に登っては、出雲に向い白幣(はくへい)を作り、「我が怨念が出雲の浦まで届くなら、白幣よ立って流れよ」と百日も祈念を凝らし海に流して念じました。が、一本も立たちませんでした。
白幣(はくへい)
2本の紙垂を竹または木の幣串に挟んだもの。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)ともいう

宮司は諦めて下山していると、白髪の老人が現れ、「修業が足らぬ、もう50日丹精にこめなさい」と言いました。
宮司はその言葉通り、山にこもり祈念を凝らします。20日を過ぎた頃でしょうか、流す幣が全て立ったまま出雲の方へ向かうようになりました。

そして数日後、出雲の加賀浦(かがうら)に一羽の白鷹が飛んで来ました。
白鷹は珍しいということで、藩主に献上されたのですが、その白鷹は白装束を着たものすごい怒りの形相をした宮司に見えたそうで、藩主は慌てて加賀浦に放させたそうです。
しかし、その後も城内には不審な事が続きました。
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隠岐の宮司の元へ放たれた白鷹が舞い降りました。宮司は使者として松江にいる妻に手紙を送る事を思いつきましたが、紙も筆も無かったため、袖をちぎって紙の代わりにし、筆の代わりに指を切った血で文字書きました。鷹は妻の元に着き、妻は泣く泣く手紙を読んだ後、返事と共に書き物に不自由している夫のために筆や紙、すずりを足に結び放しました。
鷹は隠岐へ向かい140キロも海上を飛びましたが、荷物が重く渚まであとわずかという所で海に落ちて死んでしまいました。
鷹の死骸を拾い上げた宮司は嘆き、もはやこれまでと、三日三晩・呪いの断食を行い自らの命を絶ちました。
それからというもの、松江城ではますます怪事が続き、とうとう藩主も急死する事態に陥りました。
代が代わり第五代松江藩主・松平宣維(まつだいらのぶずみ)の頃、藩主は34歳の若さで病死、妻の天岳院は数々の不幸の因縁は祟りではあるまいかと思いをめぐらせ、隠岐に流された小野宮司のことに思い至り、1733年、市成の御立山(おたてやま)に宮司を祭る推恵神社を設立しました。
推恵というのは、恵みを推し及ぼすという意味だそうです。

日御碕神社の推恵神社の前に立って合掌すると、隠岐の推恵神社にも同時に拝む事ができる方向に建てられているそうですよ。
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この小野宮司のお話には別バージョンもあるそうで、宮司の妻は、神谷の屋敷に帰った際、井戸に身を投げ自らの命を絶ってしまう。一方、隠岐の島に流された宮司は、日御碕の家族の無事を祈り、隠岐の住民の病気が治るよう祈祷をしていた中、妻の死を伝え聞き苦悩。その後、1678年に隠岐地方を襲った疫病のため、海士で亡くななる。藩主の綱隆公もまた、宮司の妻の死後、夢遊病者のようになり、その翌年に急死する。

どちらにしても、なんとも切ないお話です。

参照元https://blogs.yahoo.co.jp/syanderi/68922347.html








  









神社大好きMarimoのブログ:3/94

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